どうも。ER看護師のナナオです。
ジョーカーを観てきた。
さすがベルリン国際映画祭にて金獅子賞を受賞しただけはある。
今日は『ジョーカー』に関して思ったことをただただ書きなぐっていこうと思う。
ネタバレする部分もあるので、観てない人は読まないようにしてね。
ジョーカーあらすじ
大都会ゴッサムという疲弊した街で、大道芸人として生きる主人公のアーサー。
彼は暗い社会の中で人々に笑いを届けようとピエロに扮装して街頭や施設で必死に活動していた。
しかし、ゴッサムは荒れ果て、腐臭を漂わせていた。
毎日のように街ではパトカーのサイレンの音が鳴り響き、貧困のどん底で暮らす国民は暴力の狂気へと化していった。
アーサーはそんなゴッサムで何とかピエロとして活動を続けていこうとするが、ギャングの子供たちからの暴力をふるわれ看板を盗まれ、ボコボコにされ、厳しい現実を突きつけられるのだった。
さらに護身用にと同僚から手渡された拳銃を、ピエロの仕事をしている際に小児病院の子供たちの前で落とすという事故を起こしてしまう。それがきっかけで仕事まで解雇されるハメに。追い討ちをかけるように、彼の心の支えになっていた市のカウンセリングや薬品の処方も終わってしまう。
そんな絶望に打ちひしがれながら自宅へと向かう電車に乗り込んだアーサーは、3人のエリートビジネスマンたちに絡まれ、また暴力を振るわれる。
その時、彼の中で何かが崩壊し、咄嗟に懐に忍ばせていた拳銃で3人を撃ち殺してしまう。
さらに精神を病んだ母ペニーは、市長選に立候補した大富豪トーマス・ウェインが、アーサーの父であるという妄言か現実かわからないことを口にするようになる。
現実と虚構の渦の中で、アーサーの中の何かが大きく変わろうとしていた…。
ジョーカーのスタッフ・キャスト
スタッフ
監督:トッド・フィリップス
脚本:トッド・フィリップス スコット・シルバー
撮影:ローレンス・シャー
美術:マーク・フリードバーグ
編集:ジェフ・グロス
衣装:マーク・ブリッジス
伝説の映画、ハング・オーバーを手がけたトッド・フィリップスがまさかこんな深くえぐい映画を製作するとは、正直驚いた。
キャスト
アーサー・フレック(ジョーカー):ホアキン・フェニックス
マレー・フランクリン:ロバート・デ・ニーロ
ソフィー・デュモンド:ザジー・ビーツ
ペニー・フレック:フランセス・コンロイ
ギャリティ刑事:ビル・キャンプ
バーク刑事:シェー・ウィガム
トーマス・ウェイン:ブレット・カレン
ホアキン・フェニックス
やっぱりホアキン・フェニックス、只者ではないと感じた。
主演のホアキン・フェニックスは特異な経歴の持ち主である。
「グラディエーター」や「サイン」など話題作に次々に出演し、アカデミー賞やゴールデングローブ賞でも高く評価されていた。しかし、後に義弟ケイシー・アフレックのドキュメンタリー映画「容疑者、ホアキン・フェニックス」で、突然の歌手転向やメディアでの奇行で注目と批判を浴びた。意味わからんすぎる。
そこから彼は何とか俳優へと復帰し「ザ・マスター」や「インヒアレント・ヴァイス」などで再び高く評価されるようになった。
狂ったキャリアを歩んできた彼だからこそ、今回のジョーカーにふさわしい男だったとも言えるのではないだろうか。
私が最も彼に衝撃を受けたのは、あの体作りである。あの気持ち悪い体を仕上げたのは、もうさすがの域であった。
ロバート・デ・ニーロ
また、大物コメディアンのマレーを演じたのは、ロバート・デ・ニーロである。さすがの存在感だった。
彼が今作にこのような役どころで出演するのは、アメリカンニューシネマの傑作「キングオブコメディ」の影響だとも言われている。彼がその作品で演じたルパード・パプキンという幻想と現実の境界があやふやな男が、おそらく時を経て、今作「ジョーカー」の役どころにリンクしているのだろうとも言われている。話せば長くなるので、気になる人は「キングオブコメディ」を観てみよう!
とにかく彼の演技はなんか魅入ってします。おもしろい。そして最後にあんなことになるとは…これもまた衝撃だった。
ジョーカーを観ての感想
私は映画を観に行って、良かった。おもしろい映画だった。もちろんゲラゲラ笑うおもしろさではなく、深みのあるおもしろいという意味だ。
前評判で狂気、狂気と騒がれていたが、それほど狂気は感じなかった。
ただただ、普通に生きていれば、そうなってしまうんだろうなと感じた。
そして観ていて、ただただ悲しかった。
今の時代は平和である。もちろん今の時代にもスラム化した街はあるし、ジョーカーのような経験をしている人たちも現にたくさんいるだろう。しかし、日本に住んでいる限り平和であると感じる。平和ボケしているのかもしれない。でもそれはそれで平和である。そんな日本であんな映画みせられたら、そりゃガツンと頭殴られた気持ちになる。
しかしよくよく思い返してみると、トッド・フィリップスの罠にハマってるのかなとも思っちゃう。いろいろ説があるが、この話は、
●時系列通り説
●過去のシーン説
●全部妄想説
と、3パターンの時間のトリックが仕掛けられているかもしれないとのこと。
確かに最後のジョーカーの髪色は緑ではなかった。
時系列通りではないのか?あのラストシーンが始まりで、その後のことが最初から書かれているのか?しかし最後アーサーはステップを踏みながら赤色の足跡を残していた。つまりカウンセラーを殺した血痕?それなら、牢獄から出るのは難しい話。すると、全てが妄想説なのか!?もともと精神疾患をもっている人間だし、あの笑う病気に関しては、観ている方を混乱させる。あの笑いが。笑っていない…泣いている…あの涙の笑いが。
うむむ。考えれば考えるほどわからなくなる。なんとも考えさせられる構成になっていた。
まぁそんなトリックもありつつ、やはり根底には、「人間とは?」ということが重きにある映画だったのではないだろうか。
私が救われたのは、小人の同僚を生かして帰した場面だ。
ジョーカーは決して悪魔ではなく、人間なんだと感じた。
そして、なにより、最後のアーサーのあのセリフ。
「到底理解できないさ」
に全てが集約されているのだと感じた。
彼の人生だけに限らず、全ての人にとっての悲劇は喜劇なのかもしれない。
それを決めるのは結局のところ、観客であり、それはつまるところ自分なのだ。
是非観てほしいおすすめの作品のひとつである。
お話は続く☆★